運ゲーを楽しめない境界
ハロー、ジャンです!
今日はJというよりいろんなブログを読んだ結果ゲーム全般に対して感じたことのお話。ランダム要素の何がゲームを面白くし、何がゲームをつまらなくさせるのか。そんなことについてアトランダムに気持ちの赴くままに書いていこうと思う。
今回は運ゲーの定義とか、そういうくだらないことについて話すつもりは一切ない。重要なのは運ゲーという言葉に侮蔑的な意味が込められていてかつ、それを多くの人が忌み嫌っているという事実だ。
運ゲーという言葉の定義は世にいるそれなりの人が持った共通認識でお話しする、僕は今日ここでディベートをしたいわけではない。
批判される『運ゲー』、批判されない《運ゲー》
Jをはじめとして様々なゲームで用いられる『運ゲー』という言葉。色々なブログを読んでいると『運ゲー』という言葉は批判的な意味で使われることがどうも多い(もちろんそうでないケースもあるけれど)。基本的にそのゲームを貶めるために使われるんだから当たり前と言えば当たり前なんだけど運要素が殆どなゲームであっても『運ゲー』の批判にさらされないものがある。
例えば僕が思うに究極の運ゲーであるすごろくなんかは『運ゲー』という批判にさらされるところをあまり見たことがない。この違いってなんなんだろうなぁという所が今回の記事の出発点。
と言ったものの答えはすでに先人たちが出してくれていた。体験を共有できる『運ゲー』は多くの人たちが批判しないということだ。
相互関係が生み出す”物語的”《運ゲー》の面白さ
例えば上に挙げたすごろく、代表的なのは人生ゲームなんかだろう。僕も大学時代なんかは友だちの家でお酒を飲みながらPS2だか3だかで人生ゲームをよくやったりもした。ルーレットのが出す目に一喜一憂し「なんだこの《運ゲー》!」といいつつもそこに批判的な意味はこれっぽっちもなかった。
他にもTRPGなんかどうだろうか。一人でサイコロを転がしてても何ら面白くない(そもそもプレイできないだろうけど)TRPGは多人数でサイコロを転がすとそれはドラマに変わる。あと少しで負けてしまう、なんて時に出るギリギリの判定には一同大盛り上がり必至だろう。
一人ではなく皆で確率に対峙した時、確率は楽しさを生み出すスパイスになる。ちょっとしたスパイスは今あるゲームから物語紡ぎ、楽しさへと変えていくのだ。
(余談だがよく確立について論じてるブログが取り上げる風来のシレンなんかもこれにあたる。選択肢を選んで選んである種、物語を紡ぎ上げた果ての運ゲーには面白さがあるのだ。)
戦うことが出来ない確率
次に批判的な『運ゲー』を生み出す要素はこれだ。
例えば三日天下を使ったときに1%の確率で7点ダメージを食らうとか、毘沙門を使ったときに1%の確率で7点ダメージを食らうとかの効果がついていたらどうだろうか。リスクリターンがあっていればそれでも僕はこのカードを使うだろうが、おそらく僕はこの1%を引いたとき最高につまらない気分になる。
対処するすべがなく、その確率と戦うすべのないランダム性はゲームを壊し、つまらなくさせることは間違いない。
出来るから出来ないへ
ランダム要素をつまらないと感じさせる要素は他にもある。本来、ランダム要素とは運が良ければ出来るとか、運が良ければ勝てる、みたいなプラスの要素であるべきだ。だからこそ、運が良かったときそこにカタルシスを覚え感動する。つまりランダム要素はゲームの幅を広げるものであって狭めるものであってはならないのだ。
まとめ的な
つらつらと一貫性もなく書いてきた、もちろんのことながら上に挙げた要素以外にも『運ゲー』と感じるランダム要素があり《運ゲー》を感じさせないランダム要素はいくらでもあるだろう。
重要なのは今、世の中の多くのゲームが運の要素を絡ませていて、人があるゲームを『運ゲー』と呼ぶとき、重要になってくるのはそのゲームがランダム性によって支配されているかではない。その言葉に侮蔑的な意味を込め、様々な要因が複雑に絡み合いランダム要素を楽しめないその境界を越えている人がそこにいるということだ。